こんにちは、丸山芽美です。
いつもブログを読んで頂きありがとうございます。
先日、某たこ焼き屋さんでたこ焼きを買いました。
初めてで、ソースの種類も多く迷っていたので、注文で味を伝えたのですが個数を伝えるのが抜けていました。
店員さんが無言で私が何かを言うのを待っていたので、なんですか?って言ったら
「個数!!」って言ってきて感じ悪く思いながら「8個ください」と言いました。
さらに何か聞かれたけど聞き取れず「はい?」と聞き返したら、ため息ついたのち、「マヨネーズ、鰹節は!」と聞かれて、私はカチンときて、「初めてで分からなかったので、すいませんね!怒」
と言いました。
この一連の流れ、私が自分で気づくために引き寄せたことなんですけどね。
三次元で見れば、なんなの??あの感じの悪い店員は!ってなるのだけど
ここをゆっくり紐解くと面白いんですよ。
まず、たこ焼きを注文する前にメニューが分かりづらくてどうしようと小さい動揺をしました。
それでいざ注文して、たこ焼きやさんの個数!と言う言葉と店員のため息に怒りで反応している私がいます。
私は、個数!の言葉とため息の中にある意味をつけたからです。
その意味は、お前メニュー表に書いてあるんだからちゃんと読めや!とか
それぐらい分かるだろ?馬鹿な客だ!って言っている顔に見えたのです。
だから怒って「8個!初めてで分からなかったのですいませんね!怒」と反応したわけです。
私は、どうやら分からないことがダメだと思っているようです。
私の信念は成就され、たこ焼きやさんにため息つかれました笑
たこ焼きやさんなのに、親に反応されたかのようです。
その信念はどこからきたのかな?って考えてみると、
親に勉強で分からないことを酷く馬鹿にされたり責められたという記憶からでした。
「そんなものも分からんのか?トロイな!」
子どもの勉強でも、分からないままだと私的にすごく自分が反応するし、そんなものも分からないトロイ人間になりたくなくて、なんでもすぐに分かろうとする癖がありました。
分からない場面になると不安や怒りとして反応するのです。
分かろうと努力したって分からない事ばっかりですよ。
世の中分からないことだらけで、そんな分からない、理解力のない自分にOKしたつもりでいたけど、まだまだ✖︎をしていたことに気がつきました。
私の中で”分からなければならない”という固定観念に縛られていることを発見しました。
だから”分からなくていいよ”って自分を許しました。
それに、分かりたいことは、いつか分かるようにできているし、タイミングがあるし、
分からないときは、まだタイミングじゃないし、”分からない”そのもどかしさを経験する事を楽しもうと思えます。
私って本当すごいな〜だって自分の必要じゃない固定観念に気づくように、事を引き寄せ怒りで反応してるんだから。
あのイライラの直後は、こんな店二度とこない!って一瞬思ったんだけど、
食べたらトロトロで美味しかったです^^
この世界は全て自分が創り出しているという事を体感した面白い出来事でした。